2009年08月04日
首里の石畳道を歩く
首里城の南(金城町)にある石畳の道を歩いてみた。日本の道100選の一つにも選ばれているらしく、その石碑が入り口近くにあった。
元々は首里城から本島南部へ向かう「真玉道」だったようだが、今はその一部が残されている。途中に眺めのいい場所も何ヶ所かあった。首里城からだと坂道を下ることになる。
だから行きはよかったのだが、帰りが大変だった。 下まで降りきったところでバスにでも乗るつもりだったが、近所の人に聞いてみると 「この辺は、たまにしかバスは来ない」 と言う。仕方がないので、今来た道を途中まで引き返すことにした。これが大変だった。上ってみると結構な勾配の坂である。息を切らしながら、バスが通っていそうな道まで引き返した。
元々は首里城から本島南部へ向かう「真玉道」だったようだが、今はその一部が残されている。途中に眺めのいい場所も何ヶ所かあった。首里城からだと坂道を下ることになる。
だから行きはよかったのだが、帰りが大変だった。 下まで降りきったところでバスにでも乗るつもりだったが、近所の人に聞いてみると 「この辺は、たまにしかバスは来ない」 と言う。仕方がないので、今来た道を途中まで引き返すことにした。これが大変だった。上ってみると結構な勾配の坂である。息を切らしながら、バスが通っていそうな道まで引き返した。
16世紀の主要道路として造られた石畳道らしいが、作るのも大変だったろう。その当時は、延長10kmもあったそうだ。 沖縄本島では戦火のために残されていないが、石垣島には殿内(ドンチ:士族屋敷)が残されている。この通沿いには古民家(おそらく戦後のもの)が1軒公開されていた。 何度も振り返りながら、そして当時を偲びながら、休み休み上ったが、汗びっしょりだった。 乗ったバスの運ちゃんが冷蔵庫のように効かせてくれていたクーラーが有難かった。
那覇の夏の日は長く、20時近くなっても辺りは明るく、夕暮れ時は短くて、すぐに夜が来たが、夜と言っても祭の日の夜のようで、何か胸騒ぎがした。 この街で15万人の県民と9万の兵士が亡くなっていると聞いた。その沖縄戦の地獄のような風景が今も尚、この街の夜を焦がしているのだろうか。 「・・・思へども、思い見がたき身のはかなさ」
那覇の夏の日は長く、20時近くなっても辺りは明るく、夕暮れ時は短くて、すぐに夜が来たが、夜と言っても祭の日の夜のようで、何か胸騒ぎがした。 この街で15万人の県民と9万の兵士が亡くなっていると聞いた。その沖縄戦の地獄のような風景が今も尚、この街の夜を焦がしているのだろうか。 「・・・思へども、思い見がたき身のはかなさ」
Posted by koyuki at 07:20│Comments(0)
│琉球にて
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